熊本県の伝統工芸アーカイブ映像の紹介
熊本県の伝統工芸アーカイブ・情報発信事業で制作された熊本県伝統的工芸品の製作映像をご紹介いたします。
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公開中のアーカイブ映像一覧
熊本藩時代、職人町として栄えた熊本市川尻町。なかでも川尻刃物の歴史は古く、室町時代に“波平行安(なみのひらゆきやす)”の流れをくむ刀鍛冶が始まりといわれています。
林昭三氏は、3代続く鍛冶屋の4男として生まれました。徴兵でいない兄に替わって18歳で4代目としてこの道に入り、「川尻包丁」の鍛冶職人として70年に渡り様々な要望に応える刃物を作ってきました。
林氏の包丁は、長年変わらない切れ味が特長です。型抜きによる単純工法で大量生産される包丁が主流の今、林氏が手作業で作る包丁は、せいぜい3日で10本程度ですが、柔らかい軟鉄に硬い鋼を割り込み鍛え上げる「割込鍛造」技法で作る刃物は、その切れ味の良さから多くのファンを得ています。
宮ア珠太郎氏は、1950(昭和25)年熊本県立人吉職業補導所竹工科卒業後、1953(昭和28)年に上京。通産省工業技術院産業工芸試験所で雑貨意匠竹工技術研究生修了後、独立。日展、現代美術工芸展などに複数回入選。(社)日本クラフトデザイン協会理事、九州クラフトデザイン協会理事長、大分県別府産業工芸試験所所長などを歴任後、1991年に帰熊し制作を続けています。
デザイン性を意識したシンプルで洗練された作品は、暮らしに役立つ生活の道具でありながらも、使う楽しみや喜びを兼ね備えた現代的な作品として高い評価を得、1992年国井喜太郎産業工芸賞受賞、2011年には日本クラフト展で優秀賞を受賞しました。
2003年くまもと県民文化賞特別賞、2005年には地域文化振興の功績をたたえる文部科学大臣表彰を受けるなど日本を代表する竹工芸作家の一人です。
きじ馬や花手箱などの郷土玩具は、約800年前に平家の落人によって始められたとされ、木材に赤、黄、緑、白の鮮やかな色彩が特徴です。
毎年旧暦2月に開催される人吉の春の市では、露天に並ぶ「きじ馬」を男の子に、「花手箱」を女の子への土産として買って帰るのが習わしとなっていました。
住岡忠嘉氏は、次第に作り手が減るなか、きじ馬・花手箱の復興に努めた初代の意志を受け継ぎ、木材と道具を見事に使いこなす匠の技で製作を続けています。
1988年くらしの工芸展入選。1989年と1990年には日本グッド・トイ100選に「きじ馬」と「花手箱」が連続で選定されました。九州自動車道の人吉〜八代間、肥後トンネル出口(人吉側)には住岡氏がデザインしたきじ馬と椿を見ることができます。
肥後象がんは、江戸時代初期に鉄砲鍛冶が鉄砲の銃身や刀剣の鐔に装飾として象がんを施したのが始まりといわれています。特に、細川忠興が時の名匠を召し抱えて制作にあたらせ、技量の奨励をはかったため、鐔や刀装金具類など数多くの名作が生み出され、全国的にも「肥後金工」として高く評価されました。
坊田透氏は、その技術を受け継ぐ伝統工芸士です。
終戦間際、家族で母の実家熊本へ移り住み、1955年京都駒井象嵌継承者 川人芳男氏、1962年肥後象がん作家 永代正一氏、その後人間国宝 増田三男氏に師事し腕を磨きました。
西部工芸展で多数入賞、全国伝統工芸士作品展「会長賞第一席」受賞など、作品に新たな色彩や現代的な抽象デザインを取り入れ、第一人者として肥後象がんの可能性を広げています。
水の平焼は、優れた陶石の産地として名高い天草島で、明和2年(1765年)に初代 岡部常兵衛氏によって創業され、今日まで250年以上、中断なく継承されてきた窯元です。代々の窯元が時代に合った工夫を重ね、なかでも5代目の源四郎氏は釉薬の研究に取り組み、水の平焼の代名詞とも言える海鼠の斑点のような模様が現われる赤海鼠釉を発明しました。
岡部信行氏は、その7代目を受け継ぐ陶芸家です。有田で学び、信楽で3年、京都で3年修業の後、先代の久万策氏のもと家業に従事しました。三代に渡り使用してきた釉薬原料の枯渇により、赤海鼠が一時期制作できないという困難な時期がありましたが、独自の配合を研究し復活させました。釉薬の重ね掛けが生み出す独特の海鼠模様は、今も工芸ファンを魅了し続けています
木葉猿は、玉名郡玉東町木葉に伝わる郷土玩具です。地元の粘土を手捻りで成形後、素焼きし、時に彩色をして仕上げます。由来は古く、723年(養老7年)の元旦に「虎の歯(このは)」の里に侘(わび)住まいをしていた都の落人にまつわる伝説から生まれたと伝わっています。江戸時代には土産品として広く知られており、人気小説「南総里見八犬伝」の表紙にも登場しています。
明治頃までは数軒の窯元が制作をしていたようです。現在、永田禮三氏が7代目となる木の葉窯元は、人々の幸福を象徴する愛らしい姿はそのままに、日頃から体験教室を開催したり、新しい作品を登場させたりするなど、木葉猿の魅力を発信し続けています。
小代焼の歴史は古く、文禄・慶長の役の際、加藤清正とともに来日した朝鮮の陶工に始まるとする説と、1632年に細川家が豊前から肥後へ転封される際、これに従った上野焼の陶工が小岱山麓に窯を開いたことに始まるという説があります。その特徴である味わい深い地釉と自由奔放な流し掛けは、素朴で力強く、その器形とともに日常に合う美しい器として人々に愛用されてきました。
井上泰秋氏はこの地に生まれ、県工業試験場での2年の学びと6年の修業ののち1965年(S40年)肥後焼として独立し、1968年(S43年)、小代焼発祥の地に近い荒尾市府本に「小代焼ふもと窯」を開きました。以来、小代焼を育んだ自然と伝統を大切に、小代焼の第一人者として優れた作品を作り出しています。
山鹿灯籠は、和紙と糊だけで作られる立体的な構造の工芸品です。その始まりは、第12代景行天皇の筑紫路巡幸の際、霧で進路を阻まれた一行を山鹿の里人が松明を掲げて迎えたという故事にまつわるもので、約600年前の室町時代には、金灯籠を模した紙細工を大宮神社に奉納するようになったといわれています。
中島清氏は、祖父の代から続く3代目の灯籠師です。一旦は、家業の時計・眼鏡店に従事するも、僅少となっていた山鹿灯籠師の技術を残したいと父、二人(つぎと)氏に師事し、専業としての山鹿灯籠作りを確立するとともに、多くの後進を育てました。和紙からパーツを切り出し、正確に組み立てる超人的な集中力と技で、これまでに数々の大作を生み出しています。
※中島 清 氏は、2020年1月に逝去されました。