熊本の工芸家紹介

IMG_2395.JPG高田焼(こうだやき)
伝七窯(でんしちがま)
青木 修(あおき おさむ)-八代郡-
1942年旧満州奉天生まれ
1964年に伝七窯へ修行へ入り1965年独立、伝七窯窯元となる。
九州山口陶芸展入賞3回、入選7回ほか
1976年から韓国で高麗青磁を学ぶ
1990年国際芸術文化賞受賞

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高田焼(こうだやき)
伝七窯(でんしちがま)
青木 克裕(あおき かつひろ)-八代郡-
1967年熊本県生まれ
1992年から父・修氏のもとで修行。県美展入選3回
伝統工芸後継者で作る「青匠会」メンバーでコラボ商品などを精力的に生み出している

 八代郡氷川町で高田焼に取り組む青木修さん・克裕さん親子。
 父・修さんは創設者の前田伝七さんのもとで仕事を手伝っていました。
 ロクロを回して仕事をしていた職人をみているうちに陶芸の魅力に惹かれていきました。
 その後、独学で焼物の修業に入り、昭和40年7月1日に窯元ごと受け継ぐことにりました。

「最初は技術なんて教えてもらえなくて粘土づくりだけ。ロクロも原始的で粗末なものでしたが、夜中に工房へ忍び込んではこっそり練習してました。」

と、当時を振り返る。そこまで熱心に取り組んだ理由とは…。

「勉強もケンカも負けたことはなかった私が、物を言わない粘土に振り回されて負けた。それからは素直な気持ちで粘土と取り組むようになりました。」

 真剣に取り組み続け、ふと“無”の状態になったとき、思いがけず良い作品が出来る瞬間があるという。

「最初はそれが偶然でも、確かなる自分の技量へと変えて行くために努力してきました。」

 そんな修さんには、取り組んでみたい作品がある。

「やきものは“茶碗に始まり、茶碗に終わる”といわれます。茶道具の歴史から始まった高田焼ですから私も40年以上各流派の茶道を修行してきましたし、良い茶道具が作りたいですね。」

 1632年から続いている高田焼は、朝鮮出兵の折に朝鮮半島から連れてこられた優秀な陶工の一人、尊楷(そんかい)が作陶を始めたのが高田焼の初めとするのが通説とされる。独特の土味と釉調を生かし、高麗風の象嵌をほどこしたのが特徴だ。
 原料となる土はきめ細かいため、土作りがもっとも重要となる。

「少しでもほかの土が混ざったら、見た目ですぐに分かってしまう。大変な重労働で作業の大半が粘土作りといってもいいほどです。」

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生乾きの生地に竹べらで模様を掘ったり、手作りの型を押印して白い粘土で象嵌を施す

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左から八代特産のイ草の灰を釉薬に使った「亀甲面叩き藺草釉流し抹茶碗」、象嵌を施した「暦手象嵌 茶碗」(青木修さん作)【※作家さん所有の作品です】

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甕(カメ)の中に土と水を混ぜ、何度も混ぜてキメを均一にする。これを何度も土を漉(こ)しては上澄みを取ると、キメの整った粘土状に。これを天日で干し、水分を抜いていく

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人吉の木工家とコラボしたランプウェード、姉が象嵌を施したマグカップと釉薬に塩を混ぜて赤みを出したビアグラスの絵柄(克裕さん作)

 大きな甕(かめ)に粉砕した原土を入れ、水を足して撹拌(かくはん)させる。これを漉(こ)しながら別の甕(かめ)に移し、上澄(うわず)みをとっていく作業を繰り返すが、一升が入る柄杓(ひしゃく)からとれる粘土は、わずか小さなスプーン1杯にも満たない。これを素焼きの鉢に入れて自然乾燥させ、キズやムラを防ぐために長く寝かせて収縮率を低くしていく。象嵌(ぞうがん)に用いる白土とのバランスも大切で、これらの相性が悪いと、模様がはがれてしまう。この粘土作りを担当する息子・克裕さんは、サラリーマンを経て高田焼を始めた。
「高田焼は高価なイメージがありますが、まずは高田焼に触れてもらう間口を広げたくて価格帯も手頃にし、デザインも日常で使ってみたくなるものを心がけています。」

 伝統工芸の後継者グループ「青匠会(せいしょうかい)」に所属している克裕(かつひろ)さんが今、力を入れているのが、メンバー同士の得意分野を生かしたコラボ作品だ。

「高田焼、木工、肥後象がんの3人でコラボした商品づくりが進行中です。こうして熊本の伝統工芸品を知ってもらえれば嬉しいですね。」

 コンピュータ制御で焼き上げる方法もある時代に、“自らの目や感覚で確かめる仕事をしたい”と昔ながらの作り方を守り続ける親子。一つひとつに個性を宿した作品を見れば、こだわる意味が理解出来る。