熊本の工芸品

金工品の歴史
各地の農村には、かつて、生活必需品の鍬(くわ)・鎌(かま)・包丁などの鉄製品を打つ鍛冶屋がいました。これを刀鍛冶(かたなかじ)と区別して、野鍛冶(のかじ)と呼びます。川尻の鍛冶は室町時代後期に始まるといわれ、鍬(くわ)・鎌(かま)・火箸(ひばし)・船釘・錠前・刃物などをつくってきました。特に包丁を主力とする刃物は「川尻刃物」と呼ばれて有名です。人吉の鍛冶は、昭和初期まで60軒もの鍛冶屋が集まっており、大半が球磨地方から宮崎県にかけて農村をめぐって農具や山仕事用の鉈(なた)などを売ったり修理をしてきました。
刀鍛冶は、菊池氏が山城国(やましろのくに)から招いた来国村(らいくにむら)が始めたといわれ、延寿派(えんじゅは)と称しました。菊池氏没落後はその末裔(まつえい)が同田貫(どうだぬき)一門として活躍しました。江戸時代には八代市に刀匠の盛高(※)家が移り住みます。
細川氏の肥後入国後、細川三斎の指導のもと、刀装金具の制作が盛んになり、象がんの技術が発達しました。象がんを施した刀の鐔(つば)は肥後鐔として有名となり、職人達は肥後金工と呼ばれ名声を博しました。
明治の廃刀令後、刀剣や刀装金具類は美術工芸品として鑑賞の対象となり、肥後象がんは装身具や文具などに応用されてきました。

※…「高」は「はしごだか」

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