米野純夫 氏インタビュー記事(2011年1月頃)
肥後象がんといえば装身具が主流の今、米野純夫さんは肥後象がんの原点ともいえる刀鐔(つば)を主体に作る数少ない象がん師だ。「刀の柄(つか)の頭(かしら)、馬針(ばしん)、縁(ふち)、小柄(こづか)なども作りますが、どれも刀の添え物ですから単なる装飾品ではなく、実用に応じたものばかりなんですよ」18歳からこの道に入り、父が営む美術展で取引していた刀鍔(つば)を作っていた人間国宝・米光太平さんのもとで25年間働いた。しかし米光さんが高齢となり、次の担い手を育成することに。「昔の徒弟制度のように無給で修行させるのは難しい時代でしたから、象がん師を米野美術店の社員として雇うことになったんです」こうして数多くの肥後象がん師たちがここから巣立っていった。明治9年に発せられた廃刀令以降、装飾品へと移行していった歴史をもつ肥後象がん。「そういう物は消耗品ですが、本当に良い作品は100年経っても大切にされて残るもの。後輩たちにはそうした作品を残してもらいたいですね」そうした思いで取り組む米野さんもまた、刀鐔も1枚作るのに半年がかりだという。 「今は次々に商品化しないと商売が成り立たないところもあるので、時間をかけて良い作品を作ることが難しい時代になりました。良い仕事をするほど手間もかかって数が出来ない。高給取りにはなれないのが難しいところです」「若手工芸家の皆さんには良い作品をたくさん見てほしい。見る目が腕を引っ張るんです。買い手の皆さんには作品の良し悪しを見比べて、良い作品を手に入れていただきたいですね」