熊本県の陶磁器
文禄・慶長の役(1592-1598)の際、加藤清正・細川三斎らが朝鮮から伴った陶工によって熊本の近世の窯業が始まったといいます。細川家の肥後転封に伴って肥後に移り住んだ陶工達が始めたといわれる小代焼(しょうだいやき)、高田焼(こうだやき)は、藩の保護を受けて発展しました。
下益城郡松橋町の松橋焼(まつばせやき)、肥後藩唯一の白磁窯であった宇土市網田の網田焼(おうだやき)など多数の窯がありました。
人吉・球磨地方では、江戸時代に城本焼が興り、やがて一勝地に移り、一勝地焼(いっしょうちやき)として相良藩の保護を受け、陶器の生産が始まりました。それ以前にも、朝鮮陶工の系統をひくといわれる上村焼(うえむらやき)など陶器作りが行われていました。
天領であった天草地方は、藩の支援を受けることはできなかったのですが、素材に恵まれ、陶磁器の生産が盛んでした。最も古いとされる本渡市の楠浦焼(くすうらやき)、江戸後期には海鼠(なまこ)釉を特色とする水の平焼(みずのだいらやき)、天草陶石を用いて磁器を生産した高浜焼(たかはまやき)、上津深江焼などがあり、幕末には丸尾焼(まるおやき)が生産を始めました。