秋岡芳夫氏について

秋岡芳夫氏

熊本県伝統工芸館の設立にあたり企画から建築にいたるソフトデザインを担当した熊本出身の工業デザイナー・秋岡芳夫氏は、熊本県伝統工芸館での企画展示や工芸品のデザイン指導、館と熊本日日新聞社主催の工芸作品公募展「くらしの工芸展」審査員を務められるなど、熊本の工芸に深く関わられてきました。

秋岡芳夫氏は、大正9年(1920)に熊本県宇城市松橋町に生まれ、東京高等工芸学校(現千葉大学)を卒業し、日本で最初の工業デザイン事務所「KAK」を設立。以後、フリーの工業デザイナーとしてラジオのキャビネットからオートバイ、洗濯機、カメラ、露出計、ブルートレインなど、多くの機械製品や三菱鉛筆UNIなどを手掛けられました。
昭和40年代になると、高度経済成長期の「消費社会」に疑問を持ち始めた秋岡芳夫は地域産業や伝統的工芸品に目を向け、その生産、流通、生活の調和を目指し、みんなでいいモノを創ろうと、「モノモノ運動」を主宰、「消費者をやめて愛用者になろう」と提唱します。その取り組みは、東北、北海道などの地域に広がりました。
館の基礎を作ったともいえる秋岡芳夫氏の工芸デザインの考え方や取り組みをご紹介します。使い手と作り手が創造力を掘り起こし、より豊かな暮らしを創る機会になれば幸いです。

秋岡芳夫 Akioka Yoshio

1920年4月29日 - 1997年4月18日

熊本県宇城市松橋町出身。

日本の工業デザイナー、童画家、著述家、教育者。

 

くらしの工芸展91
くらしの工芸展91工芸の集い

東京高等工芸学校(現千葉大学)を卒業し、日本で最初の工業デザイン事務所「KAK」を設立。以後、ラジオのキャビネットや丸正自動車製造「ライラック」のオートバイ、セコニックの露出計、ミノルタのカメラ、洗濯機、ブルー・トレインなど多くのデザインで評価を得た。学習研究社に対し「科学と学習」の画期的な付録教材を提案。デザイナーとしての代表的な仕事となった。
一方、昭和40年(1965年)頃から地域産業や伝統的工芸品に関心を持ち始め、その生産、流通、生活の調和をめざし、みんなでいいモノを創ろうと「モノモノ運動」を主宰。消費者から愛用者になることを一貫して提唱している。
熊本県伝統工芸館の設立に当たっては企画から建築にいたるソフトデザインを担当し、「工業社会での工芸はいかにあるべきか」という氏の提言と「くらしの工芸展」のテーマは同一であり、第1回(1983年)から第14回(1996年)まで審査員をつとめた。
幼少期から工夫と工作が大好きな発明少年であり、小学校時代のニックネームは「エジソン君」。あるとき、抜けた空気を自動的に入れるタイヤを考案し、そのアイデアをアメリカの大手タイヤメーカーが買い取った。しかしそれは、企業に都合の悪いアイデアが世に出ないようにするためであった。意に反し特許という制度が悪用された経験から、よいアイデアを誰もが使うことができるよう自分が特許を取得し、公開する、という考えを持つようになった。のちに実際、アルミサッシメーカーの依頼で多数の窓やドアのデザイン開発を手がけたとき、100種以上の特許と実用新案を取得。一つのメーカーが独占できないよう、すべてを公開している。

年表

1920年 熊本県宇城市小川町に生まれる。
1941年 東京高等工芸学校(現千葉大学)卒業。
     東京市技手として建築局学校営繕課にて学校家具の研究をする。
1953年 金子至、河潤之介とともに(有)工業デザインKAK設立。
1955年 (社)日本インダストリアルデザイナー協会理事(〜1973年)
1959年 毎日産業デザイン賞工業部門で受賞(KAK)
1967年 FD中小企業デザイン機構を設立。
     ※現フリーランスデザイナーズ連盟
1968年 (財)クラフトセンター・ジャパン選定委員
     愛知県立芸術短期大学非常勤講師(〜1997年)
1969年 KAK退社。モノ・モノ運動開始。
     大分県立芸術短期大学非常勤講師(〜1977年)
     (財)クラフトセンター・ジャパン常任理事(〜1994年)
1977年 東北工業大学工業意匠学科 教授・学科長
1979年 (有)モノ・モノを共同で設立。
1982年 共立女子大学(〜1992年)
1997年 4月永眠。享年76歳。

主な著書

『ABCの歴史』(挿絵)さ・え・ら書房
『あそびの木箱』淡交社
『いいものほしいもの』新潮社
『木と漆』文化出版局
『木のある生活』ティビーエス・ブリタニカ
『暮しのリ・デザイン』玉川大学出版部
『暮しのためのデザイン』新潮社
『工房生活のすすめ』みずうみ書房
『食器の買い方選び方』新潮社・とんぼの本
『新和風のすすめ』佼成出版社
『住』玉川大学出版部・玉川選書
『竹とんぼからの発想』講談社・ブルーバックス
『創』玉川大学出版部・玉川選書
『デザインとは何か』講談社現代新書
『伝統的工芸品とデザイン』伝統的工芸品産業振興協会
『日本の手道具』創元社
『木工−指物技法』美術出版社・新技法シリーズ
『割ばしから車まで』柏樹社/

  • 1979年

    東北工業大学工業意匠学科第三生産技術研究室(代表:秋岡芳夫)が大野村に「一人一芸の村計画」を提案
    「工房村に住んで! おいしいものを食べながら! 工芸品を作ろう!」

  • 1979〜1981年

    トヨタ財団助成によるコミュニティー機能再生・増幅のため「裏作工芸」の実践的研究
    ・東北通産局商工部が研究支援チーム編成
    ・大野村商工会が受け入れ態勢を構築、その後産業課に移管
    ・時松辰夫(日田林業試験所主任研究員)を招聘し、木工指導を開始。
    ・東北工業大学が熊谷牧場(紫波町)に、肉加工製品の制作委託
    ・東北工業大学が東京食糧学園に、乳製品加工の試作委託。
    ・東北工業大学が山崎純子研究室(近畿大学豊岡短期大学)に、調理実習委託。
    ・大学と大野村の協働で「大野キャンパス‘80、81〜春夏秋冬〜」開催。
    ・第三生産技術研究室を主とした研究体制による「裏作工芸」導入期から定着期への活動に入る。

  • 1982〜1989年

    ・「膨大な研究資金を獲得活動」「製品販売活動」「支援者募集活動」「全体調整活動」などの大野一色の研究活動に追い込まれる。
    ・実践的研究活動の深刻状況を岩手県商工労働部経営指導課の支援指導で切り抜ける。
    ・グループモノモノ(岡田文夫氏)の販路打開指導を受ける。
    ・東北通産局商工労働部より「販売」「新組織立ち上げ」「販路打開」の支援を受ける。
    ・大野村より時松辰夫の村滞在費支援を受ける。
    ・工業意匠学科の在学生の支援を得る。
    ・東北工業大学、文部省、トヨタ財団、個人、グループから研究資金の断続的支援を得る。
    ・マスコミ(新聞、ラジオ、テレビ、雑誌、出版社等)の協力を得る。
    ・学校給食器の全国的発信で大野木工が確立される。
    ・「北のクラフト展」を全国で展示即売会開催。
    ・流通実践の「HOCCO(北っ子)計画」始動。
    ・大野村産業デザインセンター 一部竣工(88年8月)ハード整備の開始。
    ・大野村産業デザインセンター竣工・開所式(91年5月)
    ・大野村いきいき体験村整備
    ・大野村Y計画「乳製品加工パッケージデザイン」
    ・ミルクロードマラソン開催。

  • 1990年〜現在

    ・休養施設、陶芸工房、ガラス工房、裂き織り工房、花工房、竣工。
    ・道の駅おおの、ミーティングルーム、ふれあい動物園、パークゴルフ休憩所。
    ・暮らしを高めるための学校を「おおのキャンパス」とし、サイン整備計画。
    ・道の駅おおの「回廊(180m)」竣工。
    ・「回廊市」「第3回ミルクロードマラソン」(有森裕子参加)開催。
    ・秋岡芳夫逝去。
    ・大野キャンパス「一人一芸交流祭」
    ・大野村が建設省「手づくり郷土賞」を受賞。
    ・農産物産直施設「ゆうきセンター」竣工
    ・大野村「春の未来・創造2000年祭」「一人一芸の村20年の歴史展」パネル製作と学生と企画参画。
    ・「大野村文化教育交流促進施設」竣工
    ・大野村と種市市が合併し、洋野町になる。
    ・学校給食器が全国250か所で使用、維持管理継続中。
    ・大野木工塾(塾生は全国公募型)継続。時松辰夫氏逝去。

現在、秋岡先生の理念を受け継いで行われている活動

・東日本大震災後、特に雄勝硯生産販売協同組合の支援を「手のちからプロジェクト」を菊地・伊藤・大沼・佐藤・菅原等で立ち上げ、外部資金獲得(三井環境基金)の上、みやぎ地場産品流通開発研究会との協働による復興再生支援をこれまで実施してきた。
・東北工業大学の地域のくらし共創デザイン研究所(代表:伊藤美由紀)が参画し、「みやぎ地場産品流通開発研究会(雄勝硯生産販売協同組合・津山木工芸品販売協同組合・岩出山竹生産販売組合・手しごとAKIU・東北工業大学地域のくらし共創デザイン研究所)」協働により実践的な教育研究活動を行っている。
・洋野町(旧大野村)とは2021年に東北工業大学との包括的な連協協定を締結。
・2019年の台風19号被害を受けた津山もくもくランドの復興再生のために、登米市から受託し
「再生のためのグランドデザイン」を2021年度に策定。

地域と手仕事【裏作工芸のすすめ

1970年代後半、高度経済成長期を経て、農林業の振るわない過疎化の著しい町村に地域経済の振興をねらいとして工芸産業を誘致、あるいは開発しようという動きが各地で起こってきました。秋岡は、「むらおこし、まちおこしを工芸でという考えは甘い、どだい工芸ほど儲からない商売はない。たっぷり時間をかける手仕事だから、手間賃の高い日本では産業化・企業化は無理である。」と批判し、それにあった生産方式とあつらえを可能にする流通方式として「里ものづくり」を提案しました。
秋岡は、1977年に東北工業大学に就任。「一人一芸の村」に向けた「裏作工芸」の導入提案を行い、北国で理想とするものづくりを実践するべく行動を開始しました。
「一人一芸の村」の狙いは、自然の恵みに十全に働きかけ、自分たちの生活を豊かにするための生産技術を、底に住む一人一人が持ち合おうというもので、そのためには、目の前にある素材に何十倍もの価値を生み出す「工芸」的な考え方が相応しい。そして、地域的には、主産業に閑期を持つ農山村に、個人には終末、夜間、老後に行う、本業の「裏作」としての工芸、「裏作工芸」の道入が相応しいと考えました。
工芸活動をすすめるためには、個人に、地域に、それぞれ相応の経済基盤と時間、そして、自分の生活の型を操作できるだけの気持ちの余裕が不可欠であります。従って、高品質で誂えを受けることのできる「里もの生産方式(コミュニティ生産方式)」には、「裏作」が「工芸」とともに必要を考えられます。
この生産方式の実践が、岩手県大野村で展開され、その後、岩手県津山町、北海道置戸町、帯広市、島根県匹見町等に広がりました。「百年継続すれば伝統工芸」といわれますが、その時までにはまだ時間がありますが、常に原点を再度確認しながら、さらに活動が広がっていくことが期待されます。
こうした秋岡の思想、行動は、50年知覚経過した現在の「工芸」や地域活動、さらに地方創生が大きな課題となっている地方の活性化においても、十二分に通用するものであり、大きな示唆を与えるものといえるのではないでしょうか。

KAKデザイングループ

1953年(昭和28)に秋岡芳夫、金子至、河潤之介の3人によって設立された、日本では初めての会社組織の工業デザイン事務所。3人の頭文字をとって「KAK(カック)」と名付けられた。
佐藤電気産業が製造販売する「クライスラーラジオ」のキャビネットデザインを手掛けていた秋岡芳夫が、「海外製品のイミテーションがまん延する状況を変えるべく、世のため人のために工業デザインをするんだ」という精神で声をかけたものだった。

 

S-39 ブルートレイン あさかぜ
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スーパー竹とんぼ
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