工芸家プロフィール
インタビュー記事(2010年頃)
くまもと一刀彫という新しい手法を独学の末に確立した村上一光さん。自宅兼工房へお邪魔すると、自作の額や木彫像、詩画が所狭しと飾られていた。村上さんが作る木彫は、柔らかな笑みを浮かべる観音様やカッと目を見開く不動明王など“作品が生きているように見える”と評されるほど表情豊かだ。「一刀彫は、奈良で祭礼行事などに飾られたものが始まりといわれます。江戸時代に入ると節句や観賞用人形などの工芸品として広まったようですが、私はそんな歴史や一刀彫の意味さえ知らずに、この仕事を始めたんですよ」第二次世界大戦終戦後、疎開先の満州から帰国した村上さんは当時15歳。6人兄弟の長男で父親は有名な画家だったが、食べる物さえなく親戚のもとを転々とした。そして最後に行き着いたのが熊本県の南部、人吉。「生活を見かねたある人が“人吉は観光地だから土産品でも作ったら?”とアドバイスしてくれました。そこで、薪がわりにと家具会社の社長さんから分けてもらった廃材と1本だけ購入した小刀を使い、自己流でカッパの彫り物を作ってみたんです。戦後で誰もが貧しい時代だったのに、これが不思議と売れて。」土産品の独創性が話題となり、いつしか“先生”と呼ばれるまでに。こうして、若くして一家を支える大黒柱となった。
その後、日本は高度成長期に入ると新素材の商品があふれ、それまで使われていた木製家具が次々と捨てられていった。それを見かねた村上さんに、ある思想が生まれた。「廃材の木に救われたんですよ、僕は。木をバカにするなと思いましたね。そこで木を守る運動を始めると同時に、木の全てを生かす仕事をしようと決めたんです」その言葉通り、村上さんの作品は木の形がそのまま生かされ、たとえば樹齢200年の朴(ホウ)の木を使った額は、樹皮も付いたままだ。イメージしたものをスケッチした後、木の形にあわせてチョークで配置を決めた後は下絵なしで彫っていく。こうして意欲的に取り組んできたが、数年前に脳梗塞で倒れてノミを持つことを止められた。失意にあった村上さんだったが、ある日、宮本武蔵 木彫像の依頼が届くと、「手も動かない状態でしたが、お医者さんに頼み込んで1日1時間だけという約束で活動を再開し、半年がかりで完成させました」その作品がテレビや新聞で紹介されると励ましの声が次々と届き、体も次第に快方へ向かっているという。「これからも体の許す限り、木に命を吹き込んでいきたいですね」