工芸家プロフィール
インタビュー記事(2010年頃)
薩摩弓の強と京弓の優美さを兼ね備えた
先代の重児さんは東京の弓師の家に生まれ小学校高学年から弓作りを始め、16歳で鹿児島へと薩摩弓の修行に出る。途中、球磨川沿岸で弓の材料となる見事な竹とハゼの木が茂る豊かな地に魅せられ、25歳のときに芦北町白石に移り住んだ。そこはJR肥薩線の裏手にある、山の中腹。先代ともども、2代目を引き継いだ重昌さんは、仕事中は一切人と会わず、弓作りに精魂を込めてきた。弓は外側の竹に7節、内側に6節の13節という構成が基本。2枚の竹に
ハゼの木は痩せた土地で育ったものほど中身が詰まり、電柱の如く直立したものが理想だ。ハゼは弾性に優れて、元に戻ろうとする性質をもつ。これを真竹で包むことで強靭なバネの働きを発揮する。
真竹とハゼの木を接着させるニベは、鹿の皮を煮詰めたもの。手間がかかるため、ニベを使っている弓師は日本で片手にも満たないという。湿度や高温に弱いが、弦楽器と同じく弓を弾いたときの響きが格段に優れている。
「弓はただ矢を射るだけでなく、張顔(はりがお)の曲線と引いたときの吸い込まれるような美しさに神髄がある。あとは、弓道家のもとでいかに大切に育ててもらえるか。まさに我が子を送り出すような気持ちです」と重昌さん。
現在はグラスファイバーで作られた弓などが普及し、竹弓の希望者の需要は多く、高段者外国人弓道家は需要不足で間に合わぬ状態。なったというが、「そうした弓も初心者のためには必要」と重昌さんは寛大にとらえる。
「引き際が肝心」と80歳の節目を迎えて重昌さんは勇退。今は弘澄さんが一人で仕事に励む。「材料選びやニベの煮方一つで仕上がりが微妙に変わります。一生涯、出来映えに満足することはないでしょう」とは3代目の弘澄さん。弓にクサビを打ち込む“弓打ち”は、午前2時の張りつめた空気の中、精神を統一して魂を込める。心技体を鍛え抜き、生み出された肥後三郎弓。その名は弓道界に永く受け継がれ、弓道家にとって憧れの対象となり続けるだろう。